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※2025年8月2日に公開したエピソードの要約記事です。
2025年に発刊された那覇垣花地域に関する歴史をまとめた字誌「那覇垣花誌」を頂いたことを機に、那覇垣花の土地の特色や戦前と戦後の暮らしについてお届けします。
那覇垣花は戦後にかけての米軍の強制接収により、現在は那覇軍港となっています。
ひとつの地域の戦前と戦後の土地の様子や人々の歴史を知ることで、現代では感じることができない、新たな見え方が生まれる点はとても貴重です。
沖縄を想う・考えるラジオ「Endless Journey OKINAWA」
番組ナビゲーター:NEO AKROS(ネオ アクロス)新崎 恭平
沖縄の歴史にまつわること、様々なフィールドで活動する人々への対談インタビューを通して「今と昔の沖縄の人の暮らし・生き方」をテーマとする番組をお届けしています。
沖縄の土地と人、人と人をつなぐ『架け橋』となり、沖縄を想う・考える番組を目指しています。
那覇垣花地域について
那覇垣花は、現在の住吉町、垣花町、山下町の3つの地域を合わせた総称です。
(※南城市玉城垣花地域との混同を避けるため「那覇垣花」と総称されています。)
その大半は、那覇港湾施設(那覇軍港)や一部の自衛隊施設となっています。
戦後、この地域の大部分はアメリカ軍によって接収され、那覇軍港が建設されたため、かつての暮らしの様子は大きく変わりました。
戦前の那覇垣花:土地の特色と人々の暮らし
土地の特色
港湾機能
那覇垣花一帯の那覇港は、琉球の時代から本島全体の玄関口となる主要な港として栄えました。
元々、那覇は浮島が点在する土地であり、牧港や泊が主要な港でしたが、1451年に尚金福王によって築かれた海中道路「長虹堤(ちょうこうてい)」により、首里と那覇の往来が便利になり、那覇は貿易港として飛躍的に発展しました。
大型船が入港できる水深、交易を支える職能集団(航海指南役、通訳など)、接待施設、造船所、防衛機能などが港の主要な役割を支えました。
琉球の大航海時代には、進貢貿易を始めとする東アジア交易のハブ港へと発展し、那覇垣花の人々は船の貨物の積み降ろしなどの荷役作業を担っていました。
貴重な湧き水「落平(ウティンダ)」
山下町には、古くから重宝された湧き水「落平(ウティンダ)」がありました。
那覇は海に囲まれていたため、井戸水は塩分が多く飲料に適さず、湧き水は非常に貴重でした。
那覇港に出入りする船は、航海の飲料水を求めて「落平」に集まり、水を取り合う口論が絶えなかったとされています。
那覇の人々の生活用水としても利用され、小型の伝馬船や天秤棒で水売りをする人々もいて繁盛しました。
仕事と産業
多様な仕事と産業
漁業(海人)、農業、那覇港での荷役作業員などが主な職業でした。
垣花まちぐわー
垣花には「垣花まちぐわー」という市場があり、水揚げされた魚の他、野菜、豆腐、肉、漬物などが販売されていました。
女性の仕事①機織り
琉球の五偉人の一人、儀間真常公が1611年に薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培を始めたことが起源とされ、那覇垣花の他、小禄や豊見城などの地域では琉球絣の一種である藍染めの紺色を基調とした絣柄「琉球紺絣」が織られていました。
また、小禄などで生産された織物「小禄紺地(ウルククンジー)」の保存継承を目指して、「当真の機織学校」という通称で知られる「小禄間切女子実業補習学校(後に小禄村立女子実業補習学校)」が設立されたという記録があります。
この学校には県内各地から入学者がいたとされており、このことから機織りや織物生産が産業として大規模であり、高いニーズがあったことが伺えます。
女性の仕事②帽子編み
沖縄はパナマ帽の一大生産拠点であり、アダンの葉を原料とした製造法が確立され、欧米諸国への輸出により泡盛や砂糖に次ぐ特産品となりました。
沖縄戦までの40年間、農村の重要な収入源であり、当時「帽子くまー」と呼ばれた3万人もの編み手が県内にいたとされます。
那覇垣花でも多くの女性が内職として帽子編みで生計を立てていました。
戦後の那覇垣花:故郷の喪失と新たな生活
米軍による強制接収と故郷の喪失
大空襲と軍港建設
1944年10月10日の那覇大空襲により市内の9割が焼失し、那覇垣花も大部分を焼失しました。
米軍は1945年3月の地上戦の最中から、攻撃を逃れるために疎開していた住民の不在中に那覇垣花一帯に軍港の建設を進めました。
これが「那覇軍港」の始まりです。
故郷の喪失
那覇垣花の人々は、愛する故郷を、不在の知らぬうちに奪われた、接収されてしまいました。
軍港建設により、住宅地の一部は海に没し、歴史的建造物であった屋良座森グスクも消失しました。
当時、初めて那覇軍港に足を踏み入れた方の証言では、「びっくりしたよ。すべてが平らになっていた。家があった場所も、海の中になっていた」と記されています。
戦後の生活とコミュニティ形成
金武湾区での生活
戦後、米軍の全面占領下にあった那覇市は住民の立ち入りが禁止されました。
多くの垣花出身者は、本島中部の「金武湾区」(現在のうるま市具志川にあった川敷原一帯)に移り住みました。
1945年末から1947年にかけて形成された金武湾区には、垣花出身者をはじめとする那覇の人々、本土や外国からの引き揚げ者が集まり、一時期は5000人を超える活気あふれる村に匹敵する町となりました。
住民は主にホワイトビーチなどで米軍の荷役作業や貨物輸送に従事し、米軍から供給された物資が集まる場所であったため、食料も豊富でした。
ホテル、デパート、劇場、パチンコ屋などの娯楽施設も営業しており、復興が進む県内でも有数の賑わいを見せていました。
「みなと村」への移住と那覇港湾作業隊
沖縄戦中に建設された那覇軍港では、戦後1500人規模の日本軍捕虜が荷役作業に従事していましたが、本土への引き揚げが決まったため、米軍は代替労働者を求めました。
そこで、金武湾区で港湾作業員として働いていた垣花出身者を中心に「那覇港湾作業隊」が結成されました。
那覇軍港での作業を円滑にするため、1947年5月に沖縄民政府によって「みなと村」が設置されました。
これは現在の那覇市山下町、通堂町、楚辺、松尾、壷川にわたる23の地域地名を含む特別行政区でした。
みなと村には、作業員とその家族が住む規格住宅、みなと初等学校・中等学校、農協、診療所などがありました。
国場組創業者の国場幸太郎氏が、那覇港湾作業隊の支配人とみなと村の村長を兼務していました。
奥武山公園一帯も、みなと村の設置に伴い南明治橋と共に埋め立てられ、現在の陸続きの地形となりました。
みなと村は1950年8月に那覇市に合併するまで3年3ヶ月存続しました。
故郷に再び集うことはできず、離れ離れに
那覇垣花の人々は、金武湾区、那覇市の都市計画事業で生まれた「重民町」(現在の若狭三丁目)、安謝など、複数の地域でそれぞれの生活を歩むことになりました。
結果として、戦前のように垣花の人々が共に暮らす日は訪れませんでした。
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