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※2025年10月4日に公開したエピソードの要約記事です。
やちむんは単なる美術品や工芸品ではなく、古くから沖縄の人々の暮らしに深く根差し、生活の道具として身近な存在でした。
やちむんという作品、完成品だけを見ると、その見た目やその雰囲気に接することができるかと思いますが、沖縄のやちむんに関する歴史的なストーリーを知ると、今までのイメージにプラスして、やちむんに関する「奥行き」のようなものが生まれるのかなと思います。
沖縄を想う・考えるラジオ「Endless Journey OKINAWA」
番組ナビゲーター:NEO AKROS(ネオ アクロス)新崎 恭平
沖縄の歴史にまつわること、様々なフィールドで活動する人々への対談インタビューを通して「今と昔の沖縄の人の暮らし・生き方」をテーマとする番組をお届けしています。
沖縄の土地と人、人と人をつなぐ『架け橋』となり、沖縄を想う・考える番組を目指しています。
やちむんの起源と壺屋焼の成立
黎明期と交易の時代
起源
沖縄の焼き物の歴史は約6600年前に作られた土器にまで遡ります。
土器の登場は、それまで生食か焼くことしか知らなかった人々に「煮て食べる」という新たな調理法をもたらしました。
琉球王国時代 (14-16世紀)
この時代、琉球は中国や東南アジア諸国との活発な海外交易を行っており、陶磁器の多くを輸入に頼っていました。
しかし、この交易を通じて南蛮焼の技術が伝来し、やちむんは大きな進化を遂げます。
国内生産の必要性
中国国内の情勢悪化や1609年の薩摩藩による琉球侵攻により、陶磁器の自由な輸入が困難になりました。
これにより、自国での陶器生産の必要性が高まり、琉球王府は焼き物産業の振興と統制に乗り出しました。
窯場の集約と壺屋の誕生
当時、沖縄本島や離島の各地には「古窯(こよう)」と呼ばれる古い窯場が点在していたことが、歴史書や発掘調査で確認されています。
沖縄本島に存在した主な古窯:
- 大宜味村:作場(さば)焼窯跡
- 名護市:古我知(こがち)焼窯跡
- 読谷村:喜名焼窯跡
- 沖縄市:知花焼窯跡
- 那覇市泉崎:湧田焼窯跡
- 那覇市首里儀保町:宝口(たからぐち)窯跡
1682年、琉球国王の尚貞王は、これら各地に分散していた窯場のうち、「知花、湧田、宝口」の3つの窯場を那覇の牧志村南側に集約する政策を打ち出しました。
この土地が「壺屋」と名付けられ、ここで作られる焼き物が「壺屋焼」と呼ばれるようになったのです。
王府が壺屋を選んだ理由
資源の豊富さ
焼き物の原料となる良質な土と水が豊富にありました。
地理的優位性
港に近く、安里川を利用して燃料となる薪や特殊な土の調達が容易でした。
経済的効率性
瓦や甕などの需要が増大していた時期であり、生産に必要な土や薪の経費削減が求められていました。
壺屋焼の様式と特徴
壺屋焼は、製法や用途によって大きく二つの種類に分類されます。
これらの様式を理解する上で重要なのが「釉薬(ゆうやく)」の存在です。
釉薬とは、陶器を焼く際に表面にかける材料で、焼成によって溶けてガラス状に固まり、器を丈夫にすると同時に、多彩な色彩表現を可能にします。
荒焼と上焼
| 荒焼(あらやち) | 上焼(じょうやち) | |
|---|---|---|
| 技術的系譜 | 喜名焼、知花焼 | 湧田焼 |
| 製法 | 釉薬をかけず、約1,120度で焼き締める | 釉薬をかけ、約1,200度以上の高温で焼成する |
| 風合い | 素朴、力強い、表面はざらつき、重厚感がある | 鮮やかな彩色・装飾、表面はツヤ感があり滑らか |
| 原料 | 本島中南部産の黒土(ジャーガル)、赤土(島尻マージ) | 本島中・北部産の赤土、白土 |
| 主な製品 | 酒甕、水甕、味噌甕などの大型貯蔵容器 | 碗、皿、急須、酒器などの日常食器、花瓶 |
| 主な役割 | 高温多湿な気候での食料・水・泡盛等の保存・輸送に不可欠な生活必需品 | 日常生活で使う食器、貴族や上流階級向けの献上品 |
琉球王府による支援
琉球王府は、県内各地の技術を結集して生まれた壺屋焼を王国の重要産業と位置づけ、その発展を積極的に支援しました。
功績を上げた職人には士族の位や土地を与えるなどのインセンティブを設け、技術の向上を奨励しました。
壺屋焼:近代から現代への変遷と試練
近代化の波と民藝運動による再評価
廃藩置県 (1879年)
壺屋は、王府の管理下から民間の窯場へと移行しました。
近代化の危機
明治時代に入ると、本土から大量生産された安価で丈夫な磁器製品が流入します。
陶器である壺屋焼、特に日常食器として使われていた上焼は市場を奪われ、苦しい状況に追い込まれました。
一方、貯蔵容器としての需要があった荒焼は比較的安定していました。
ただ、荒焼も不景気による打撃を受け、浮き沈みすることもありました。
民藝運動による再評価
哲学者の柳宗悦氏と陶芸家の浜田庄司氏らが提唱した「民藝運動」が、この窮地を救います。
彼らは、無名の職人が手掛けた日常的な生活道具の中にこそ真の美しさがあるという思想(民藝)を掲げました。
戦前に壺屋を訪れた柳らは、壺屋焼の美しさだけでなく、失われつつあった伝統的な手法や生活が残る姿に深く感銘を受けました。
この高い評価は、苦境にあった上焼の職人たちに自信と誇りを取り戻させるきっかけとなったのです。
戦後復興と新たな課題
沖縄戦後
被害を免れた壺屋ではいち早く陶器生産が再開され、職人たちは被災した家々を修復しながら、無償で住民に食器などを配ったと伝えられています。
本土復帰後 (1972年)
海洋博覧会の開催などを機に沖縄ブームが到来し、本土からの観光客が壺屋焼を買い求めたことで需要が激増しました。
公害問題の発生
戦後の復興と都市化により壺屋周辺が住宅密集地となったことで、伝統的な薪を使う「登り窯」から出る黒煙が深刻な公害問題として浮上します。
「登り窯=公害」という声が高まり、反対運動が激化した結果、1974年に那覇市が登り窯使用禁止勧告を出しました。
これにより、壺屋の窯元は伝統技法の維持が困難になるという大きな岐路に立たされたのです。
読谷への移転と二大拠点の形成
この伝統継承の危機に際し、救いの手を差し伸べたのが読谷村でした。
当時、基地返還跡地の利用を模索していた読谷村は「文化村構想」を掲げ、元米軍用地だった土地を職人たちに提供し、伝統的な登り窯の設置を提案しました。
この提案に、人間国宝の金城次郎氏をはじめとする多くの職人たちが応え、読谷村へと移住しました。
この出来事は、伝統的な焼き物の技法を現代社会と共存させるための重大な決断となり、現代へと続く沖縄県内の二大拠点である、壺屋「やちむん通り」と読谷「やちむんの里」が形成される礎となりました。
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「Endless Journey OKINAWA」
-沖縄のヒトの暮らし・生き方をめぐる、終わりなき旅-
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